2006年07月06日
「いつか、手に入る」と「いつか、手に入らなくなる」の境界
梅田望夫さんのエントリーに面白いものがあったので、反応します。
まずは、引用から。
これからは、「あちら側」に無限の情報が存在し、その検索性が高まり、なおかつネット上で人でつながっているので必要なら「誰かに情報を求める」というアクションも簡単に取ることができる時代である。欲しい情報のすべてが絶対に「あちら側」に存在するという保証はないが、かなりの確度で必要なときにアクセスできる(exactに欲しいものにたどりつけなくても似たような未知のものには必ずたどりつける)、と信じることができるようになると、人々の情報に対する行動は変わってくるに違いない。
このあたりをちょっと狭義に「業者がサービスとしていないものを対象」と解釈した場合、「Winny」が本質的に目指していたところになるかと思います。要するに、「あちら側」に「ディスク領域」を作成し「放流する」ことにより情報を取得可能な状態とするということです。ただし、この辺は、皆さんご存じのように、無法地帯となってしまう可能性が高く、「あちら側に情報が存在する世界」の現実可能性は低いのではないかと思います。
そこで、「業者がサービスとしているものを対象」とすると、AppleさんのiTMSやゆうせんさんのGyaoあたりが、対象となるかと思いますが、これであれば十分に「あちら側に情報が存在する世界」の現実性があるのではないでしょうか。
ここでのポイントは、「業者のサービス」であるため、ほぼ確実に情報を取得できるという点です。要するに、サービスは「いつでも(いつか)、手に入る」ですが、YouTubeでは「いつか、手に入らなくなる」という、違いです。
「いつでも(いつか)、手に入る」と思わせることが出来れば、
若いときからYouTubeを視聴して育つ世代は、情報は溜め込まずに消費し、必要なときにアクセスするのが当たり前になるのではないか。もちろん物凄い解像度で見ないと楽しくない映像は特別扱いされるだろうが、消費してしまえばいいやという程度の映像ならば、情報行動はそんなふうに変わっていくのではないだろうか。
という行動を取る人が増えてくると思っています。
実際に、私は、2001年から、大学時代の友人たち6名で、自分たちで作成したデータが「いつでも(いつか)、手に入る」環境を構築しています。
その利用者である友人Kくん(20歳後半)は、自分で情報を「溜め込む」作業から解放され、非常に満足しているとのことですので、「いつでも(いつか)、手に入る」と「いつか、手に入らなくなる」の境界をきっちりを守れば受け入れられるのではないかと思います。
修正(2006/07/08)
「いつでも、手に入る」→「いつでも(いつか)、手に入る」に、修正いたしました。こちらの方が、私が考えていた形に近いためです。
もともと、この考えては、米国などのCATV普及国では、多チャンネルにより「いつか、再放送がるた目、いつか、見ることが出来る」ために録画機が日本ほどは普及していないというところからのインスパイアされたものだからです。
- by noritsuna
- at 00:05